来月
寺地拳四朗と矢吹正道の再戦まで1ヶ月を切った。前回、圧倒的に有利予想の拳四朗がまさかのKO負け。拳四朗は試合1ヶ月前にコロナ感染、調整は万全ではなかったであろうけど、それにしても矢吹の大金星。安定王者を攻略してのけた。
からの再戦。初戦は正直あまり興味が湧かなくて、矢吹のことも映像で少し観たくらいしか知らなくて、強い印象がなく、まぁ拳四朗が無難に防衛するだろうくらいに思って、録画放送で観た。
したらまぁ凄まじい大激戦。意地と意地のぶつかり合い。ライトフライとは思えぬ体格に恵まれた矢吹の繰り出す強打に、公開採点でポイントの不利を知った拳四朗が怯むことなく距離を捨て、これまでに見たことのない真っ向勝負を挑み、素晴らしい試合になった。矢吹のバッティングなど問題や禍根も残ったが非常に見応えのある良い試合だった。
今度は挑戦者とチャンピオン、立場を入れ替えての再戦。拳四朗は必ず仕上げてくるだろうし、万全なら負けないと思っているだろう。矢吹も世界チャンピオンになったこと、一度勝っているという事実からくる自信、前回よりもさらに強くなっているであろうことが予想される。名勝負必至の好カードだ。
ということで、観戦に行くことに決めた。
人生の幸福は、どれだけ快楽を得たかではなく、どれだけ感動を得たかで決まる。とかって昔の偉い人が。
感動を貰いに
来月京都へ。
2年会わない友人と会うこともすごく楽しみだ。
水差すなよコロナ。
老朽
コロナ禍がいつまで続くのか知らないが、世の中が停滞してかなりの時間が経つ。この間に疎遠になった人も沢山いる。たまに会って食事などに出かけ、近況など話す程度の知人とはさっぱり連絡を取らなくなった。
世の中がこんなだから誘うのにも気を遣う。特に子どもがいたり、奥さんも働いている家庭の人間だと尚更誘い難い。それは相手も同じか、自分と違いコロナを真摯に恐れて外出を控えているせいかは知らないが、誘われることも無くなった。
人間関係というのは、家屋などに似て、人が住まなくなれば何故だか一気に老朽化が進む。
何は無くとも同じ時間を同じ場所で過ごすことが、人間関係にはとても重要なんだと疎遠になっている人を思い泛かべて感じる。
会えば容易く思い出せるだろうその人と共有した時間のアレコレも、今はどこに仕舞い込んだものか、いっかな思い出せない。
なんだったら、コロナ落ち着いたらまた!なんて約束を誰としたかも記憶が朧げ。
少し会わぬうちにかくも人間関係というのは老朽化するものなんだな。
その程度の関係だったと片付けるのには、少し抵抗がある。
残りの人生を考えたとき、人間が苦手な自分が、これから一緒に食事など行こうかと思える人間に幾人出会えるか。そんなことを考えてしまう。
確かにそこに築いた何かは残っている。
でも今は誰も訪わない。古びて崩れかかっているけど、取り壊すには忍びない。
そんな関係が増えたよな。とか。
「ホテルローヤル」2020年 日本
監督 武正晴
辺鄙なところに建つラブホテル。
経営者、その家族、従業員、客、ホテルで垣間見るそれぞれの人生。人間模様。
幸せ
知らぬ間に年が明けて、もう一週間以上経つ。盆も正月も無い職場にいると世間と足並みが揃わない。そもそも揃える気もないので一向不都合はないが。
新年早々職場が妙なことをやろうとしている。ワクチンを接種していない人間は職場に入れない若しくは接種済みの人間と職場を分離する。さらにその場合、未接種の者には3日に1回PCR検査を義務付け、陰性証明を提示する義務を負うものとする。みたいな。アホか。ワクチンにそもそも感染予防の効果は無いと発表されているのだから、検査をやるなら全員にやらなければ意味がない。どこの阿呆が音頭を取っているのか知らんが、よくもこんなラリった施策を思いついたもんだ。治験も終わらない訳の分からない薬をほぼ強制で打たせるなんて、後で責任取れるのか?取るわけないわな。お前らの遣り口なんて骨髄に染みるほど分かっている。
そうなったときには、諸々隠蔽して、自己責任という言葉に逃げるんだろう。どうしても打たなきゃいけないなら、何かあった場合最低向こう5年間はこちらで責任を持つと一筆欲しい。
日鉄全体で約一万人の人員削減がなされるらしいから、これも篩の一環だろうか。
自分は反ワクでもワク信でもなく、ただの様子見で、治験が終わって安全が保証されれば、打たなくもない。くらいのテンションなのだけど。この先、お取り潰しが見えている職場で身体を張って人体実験に参加する気持ちにはどうしてもなれない。
職場はそんな感じで、押し寄せる圧倒的虚無感と何とか折り合いをつけて、青息吐息で通ってはいる。
プライベートでも田舎の母が、小さくない病に罹り、来月に手術を控えている。心配でしょうがない。しかし、やれることが何もない。ジレンマ。
今年は何だか大変な年になりそうだと慄きつつ恒例の近所の神社に初詣。御神籤を引いてみると大吉。普段神仏を頼みにすることなどないのだけど、少し心が軽くなる。弱ってるのかオレ?たかがこの程度の状況で?仕事なんざ身体さえ壮健であればいくらでもあるし、実際病気の母の苦しさは想像以上だろう。オレが弱ってどうする。空元気でいい、元気とつく以上悄気ているより余程いい。
ほら言うじゃない?面白いことがあるから笑うんじゃなくて、笑うから面白いことがおこるんだよ、とか。生きていれば良いことも悪いこともある。でも命があるなら全て良し。幸福に違いない。
「チャンシルさんには福が多いね」
2021年 韓国 監督 キム・チョヒ
仕事に生きていたら、ある日急に仕事を失い、気づけば婚期も逃していて、なかなか辛い状況。それでも何とか生きていかないといけない。彼女を絶望から救ったのは、これまで築いてきた人間関係、激務のなか見落としていた小さな幸せ、仕事でその心を鎧っていた要らぬプライドからの開放。要因は様々だろうが、トータル生きていることは幸せ。タイトルが皮肉でつけられたのでなければそういうことだろうかな。
自由
行くときには泣き喚いて拒んだ施設に、今度は出すため迎えに行くと、家に帰るのは嫌だと泣いた。なんて老人の話を聞いたことがあるけど、斯様に人はその環境に順応する。
僕も今の会社があまりにブラックなので、いく度も辞めようと考えたが、様々な事情やタイミングがあったとはいえ未だに勤めている。居心地が良いわけでもなく、人間関係もここを辞めたら二度と会わないだろう人達と薄く付き合いがある程度。ならなぜ辞めないんだろうな。理由は次のところで一から始める億劫さや、新しい人間関係、下がる給与などが挙げられる。
気づけばもう前向きな転職など望むべくもない年齢になっていて、更に会社の状況は悪化の一途、判断を誤った感はあるものの、後悔は無い。己の選択でこうなったのだから、これにはこれで意味を見つけてやっていくしかない。
人生というのは一人一人がそれぞれの問題集を持っていて、毎日毎瞬問題が出題される。その答えで次の問題が生成され、それに答えるとまた次の問題。どんな風に答えるのも自由。ポジティブに答えようがネガティブに答えようが、あるいは答えなかろうが自由。その選択によって次の問題が変わるだけ。今いる場所、問題はこれまでの問題に答え続けた結果だ。正解なんぞはどんな問題にも無いし、不正解もまた無い。そもそもそれを評するものも無い。あくまで自分勝手な有り得ないくらい小さな視野で見える範囲で正解だ不正解だと断じているだけだ。他人の問題集が羨ましく見える時もあるが、他人の問題見てる暇があるなら、自分の問題に少しでも取り組んだ方がいい。という答えの出し方、これも自由。
「約束のネバーランド」2020年 日本
監督 平川雄一朗
これは漫画を少し読んだことがあって、ある程度予備知識有りで観た。
原作ほどの緊張感は無かったか。
もし
急に寒くなってきた。
明日の休みキャンプに行くというのに。
しかも全ての物事を甘く見るムリヤマと一緒だというのに。
さらにムリヤマはこれがキャンプデビューで、道具もどこまで揃えているかも怪しいというのに。
もうひとついえば、夏でも涼しいキャンプ場を予約している。
寒さで眠れないんじゃないか。昨年の初キャンプでまんじりともせず寒さに震え夜を明かしたあの日の記憶が蘇る。
とはいえ、もう一年経つのか。なんだかんだ続いてるなキャンプ。
今まで超絶インドア派であると自認していたが、どうも自分は田舎が好きらしく、なかでも山が好きみたいだ。アウトドアな趣味を持つなど考えられなかったが、分からないものだ。いくつ歳を取っても、自分のことは分からない。
分からないといえば、当然だけど未来のことは分からない。
もしを考えることはくだらないから出来るだけやらないように心がけているけど、何かの折節にふと考えてしまってることがあって、ここ数年よく考えてしまうもしが、もし今はまだ健在である両親がいなくなって、奥さんに先立たれるようなことがあったら、自分はほぼほぼ天涯孤独となる。親戚や何かなどとは昔から縁遠く、いまや顔と名前も一致しない程。なのでいないも同じだ。
もし、独りになるようなことがあれば、家など売っぱらってしまって、車中泊出来る車を買い、定住地など決めず気ままに旅して、経済的に行き詰まる、身体が限界を迎える、などの限界状況を終着として生きるのもありか…などと考えたりする。
だけど実際そんな局面になれば、根がぐうたらであるから、面倒が勝ち、決心がつかずダラダラそのまま何もせず暮らすような気がする。
監督 クロエ・ジャオ
夫に先立たれ、仕事も住む所も失いキャンピングカーで生活する老齢に差し掛かった女性が主人公。
キャンピングカーで主に季節労働の仕事を求めて各地を転々とする。
収入は生活するにギリギリで、クルマが故障すれば修理費にも事欠く。身体も若くないから年々衰えていく
先の見えない薄氷を踏むような苦しい生活。
姉妹や知り合いを頼れば、普通の生活を送ることも可能であるはずだけど、彼女はキャンピングカーでの生活を選択する。
なんだか他人事ではない思いで観た。
友
僕には友だちが少ないが、その少ない友だちのうちでも30年来の付き合い、一番の古株にして会う頻度でいえば未だに一番の親友がどうも来年の春あたりに上京するかもしれないらしい。
寂しいことだが、彼の幸せを考えると良い選択だから応援しようと思う。
大阪にいてさえ爆弾級の個性を持った彼が、東京でどんな風に暮らすのか非常に楽しみだ。
しかし、四十代半ばの歳で良いとは言い難いが安定した仕事があり、買った家もあるのに、それらを擲ち、住むところを自ら変えるという決断力は凄い。
見習うべきかどうかは分からないが、その行動力には驚かされる。
人生は一度きり、やりたいことをやるべき。良く聞くし、そうだねと聞いたときは思うのだけど、いざ何事か決めるときには失念していて、一般的で常識的で無難な選択に落ち着いてしまう。
今回我が友がした選択が吉と出るか凶と出るかは分からないけど、人生は一度きりを体現したような選択に少なからず羨望を感じる。
どちらに転ぼうと彼はきっと笑っている。そういう男だ。だからこそ、この選択が出来たのだろう。やっぱり彼は面白い。今更ながら思う。
これから生まれるたくさんの笑い話を思うと、楽しみでしようがない。
「グッバイ・リチャード」2018年 アメリカ
監督 ウェイン・ロバーツ
病により余命宣告を受けた大学教授が、残りの人生を好き勝手に生きる。
友の思い、家族の思い、教え子たちとの時間。
死にゆく彼を見つめるそれぞれの目。
めちゃくちゃ良い友だちが登場人物にいて、彼との友情譚としての印象が強い。
友を見ればその人がわかる。とかいうが、主人公の自暴自棄で放埒な理解に苦しむ行動も、彼という素晴らしい友がいるという事実がはちゃめちゃを中和していた。
持つべきものは友。との言葉が良く分かる作品。
賢い
学生時代の知り合いで、今はもう全く会わない人のうち、現在どうしているか気になる人はいるかと問われれば、賢かった人より頭の方がちょっとアレだった人ばかりが脳裏に浮かぶ。
賢い人は、賢いのだから現在も賢く生きているだろうと思うが、アレだった人はどうしているだろう、あのままで生きていけているのだろうか、生きているとしたらどんな人生を送っているだろう。
所謂賢さとは、常識を理解し、その範囲内で行われる社会活動で高水準の活躍をし、お金を稼いで、綺麗な奥さん、出来た子供、大きな家に小さな犬、イカした車に、海外旅行、およそ世にある幸福をたくさん手に入れられる。社会という全員参加型のゲームがすごく上手い人。
それは人生を愛しやすいだろう。誰もが良いと思うものに囲まれているのだから。
逆に阿呆であると、常識が理解できず、刹那の享楽に簡単に流され、社会のなかで落ちこぼれ、普通に生きていれば手に入れられるものも手に入れられず、自分の身ひとつさえ持て余す木偶に成り下がったりする。ゲームの下手くそな人。
とはいえ、これはあくまでも社会というゲームの中での人間が考える価値判断で、人間としての阿呆、賢いとは違う気もする。
仮に他人から見て、愛せるものを何一つ持たないのに、人生を肯定し、幸福を感謝する人がいたらどうだろう。
愛しやすいものに囲まれた人が、当たり前に感じる幸福や感謝より、すごくないだろうかな。
社会の中では、何も持たないのに、人がただ一つ欲して已まない幸福を手に入れている人がいれば、その人こそ本当の賢人じゃなかろうか。
一見して乏しく寂しい生活を送っているように見える人が、とても幸せそうに、エネルギッシュに生きていたりすると、持っている人に対するより大きな嫉妬を感じる。
「社会」よりひとつ大きなくくり、「人間」として見るならば、どちらが賢いのか。
過去に阿呆と断じた人のなかに本物がいたかもしれないな。そう考えると、どうしても今どうしているか気になるのは、阿呆に見えた彼らなんだ。そういえば、その当時から賢いとされてる奴らより随分楽しそうに生きていたよな。
などと。
「佐々木インマイマイン」2020年 日本
監督 内山岳
劣悪な家庭環境で生きる佐々木。
それでも明るさを失わず恨み言ひとつ言わず生きる佐々木。
そんな佐々木に励まされ導かれ、その存在に思い出に突き動かされる主人公。
映画であるのに、劇的なことが起こらない佐々木の人生がリアルで切ない。
佐々木は賢いと思う。