いきてる。
ジム通いを始めてひと月半程度が経過した。
先月は無理やりも含めると10回程度は行くことが出来たから、始める前は月に4,5回行ければいい方かなと考えていたことを思えば上々。
最近は心肺機能は相変わらず全然ついてこないが、翌日の筋肉痛に悩まされることもなく、いい感じで運動不足を解消出来ているように思う。
しかし、筋肉痛にはならなくなってきたのだけど、関節にくる。年なのか。これが老化なのか。手首、膝、腰が少し激しめに動くと翌日かなり痛む。
あいてて、いてて、などと言いつつ歩いていると、これが苦痛かと思いきや、何だか生きている実感があって意外と厭じゃない。
少し前までは、生きている実感が希薄で、本当に何も感じない、ただ朝が来るから仕事に行って、夜が来るから寝て、話しかけてくるから答えて、あ~面倒だな。生きるって面倒だ。なんてことを思っていたりした。
しかし、自分から能動的に動き手にした痛みは、受動的に与えられた慰めやちょっとした幸運などより余程快い。
どうでもよかった人生が、今ちょっと生きてて良かったと思えるようになってる。
でも、幸福を疑う癖がついてしまっているから、どこか引っ掛かりを感じているというか粗を探してしまう。みっともない。
例えそれが仮初の幸福でも、それを感じるなら、それにそのときは浸りきる。そうあるべきだ。
そう思っているのに、上手く出来ない。めんどくせぇ人間だな。あ~生きるってやっぱり面倒だ。けっきょく、そこ実家?ってくらい同じところに戻ってくる。
バカは死ななきゃ治らない。とはいえ、バカを治すために死ぬ奴もそれはそれでバカだろうよ。
「レヴェナント 蘇りし者」 2015年 アメリカ 監督 アレハンドロ・G・イニャリトゥ
あの「ギルバートグレイプ」や「バスケットボールダイアリーズ」なんかで、かわいかったディカプリオがこんな重厚な演技をするオッサンになるんだから、僕も年を取るわけだ。そら関節も痛むわ。
目の前で息子を殺された男の復讐劇。といえば、相手は人間。かと思いきや、自然が復讐劇の前に大きく立ちはだかる。
どこまでも峻厳な自然の中復讐を胸に生きる男の執念。
ディカプリオ男前。
効能
生きる力。しかも半端なく強い意志で生きる力。自然の脅威。人間愛。
不一。
けっきょくひと。
トランプとかいうオッサンがアメリカの大統領になったらしい。
政治なんて聞いただけで頭が痛くなりそうなことを、もちろん僕は知らないけれど、あのオッサンは何だか嫌いだ。品性が感じられないし、傲慢さが顔に出てるし、感謝なんて単語すら知らなそうだ。実際の人となりは分からないけれども。
と、それはいいとして、最近、人に恵まれる、いや以前から僕は人には恵まれてきたけど、特に最近、とても人に恵まれている気がする。
一度は世捨て人みたいな精神状態で、いわゆるところの社会生活はそれなりに何食わぬ顔風を装って続けていたけど、もうどうでもいいや。みたいにただ日々を消化していた。しかし、外界からの刺激で死んでた精神が息を吹き返した感じがある。
人はやはり人の間で生きて始めて人間なのだな。と当たり前のことをいたく実感。
人から力をいただくと、今度はこんな自分に何が返せるだろうと、返報性にがんじがらめになるけれど、その為に頑張ろうと思うこともまた人生にとっていい刺激なんだろうと思う。
「サウスポー」 2015年 アメリカ 監督 アントワン・フークア
基本的にボクシング映画は好まない。
実際のボクシングに優る臨場感は出せないし、一試合に懸ける意気込みが女のためとか子供のためとか取ってつけたようで、何だか甘ったるいものが多いし、人物にしても、実在のボクサーの人生の方が余程数奇で起伏に富んでたりするから、ボクシングは本物に限る。というのが僕の考え。
しかし、観ないというのではない、気になるから、余程駄作臭がするもの以外は取り敢えず観る。
で、これは評判もよく、主演がジェイク・ギレンホールということもあって、観てみた。
ボクシング界の裏側的な部分、悪徳プロモーターとかスター選手の凋落具合とかちょっとやりすぎの感は否めない。ディフェンスを知らないボクサーが43戦無敗とかいうのもちょっとリアルじゃない。
しかし、敗戦後出会ったトレーナーとの人間同士が響きあうような関係は、グッときた。母を喪った娘との関係なんて、バカの目にも涙。
何だかんだ、素敵な映画。
効能
ジェイク・ギレンホールの身体の仕上がり。父娘の絆。師弟を超えた人間関係。
不一。
いいかんじ・・かも。
自動車も動かなければ事故らない。ペットなど飼わなければ死に別れもない。人間となど出会わなければ、身を切るような別れもない。
しかし、動かなければ目的地には着かないし、人や動物とも出会わなければ、動くための活力はどこから?
リスクを冒しても動き、悲しみの予感にもめげず関係を築き、生きていく。至極真っ当。
そんな当たり前のことがずっと出来ないでいた。去年くらいから。仕事はやらなきゃ肉体が生きられないので、のらりくらりと何とか続けていたけど、精神的には勤労意欲を完全に失ったホームレスみたいな感じで生きていたように思う。
何せ心が動かなかったのである。
ところがここ最近、凄く心が弾む出来事があって、今楽しい。
けれども、新しい関係に伴う未来のあれこれ煩雑さを思うとちょっと億劫にもなる。
だからといって、止まるわけにはいかない。
リスクはどんな些細なことにだって、必ずある。それを上回る感動、優しさ、喜び、思い出、などがそこにはきっとある。
事故が怖いから動かない。いつかの終わりが怖いから始めない。
それじゃ、いつまで経ってもどこにも行けない何もできない。
明日は誰にも分からない。だから動く?だから動かない?
どちらでも自由なんだけどね。そんなこと。
「リアリティー」 2012年 イタリア フランス 監督 マッテオ・ガローネ
一攫千金を狙えるテレビのオーディションに合格したと思い込んだ男。出演準備のために自らの営む店を畳んだり、声をかけてくるホームレスもテレビ関係の仕込みだと疑い、過剰に施しをして家財がなくなっていったり、それに愛想を尽かして家族が出て行ったり。
受かってもないオーディションになまじっか手応えを感じてしまった男。狂騒の果てに何もかも失う。
効能
捕らぬ狸の皮算用。
不一。
どりょく・・か。
ものすご頑張る人のことを「努力の天才」とか言ったりするけど、頑張るにはやはりその頑張る対象に対しての才能がある程度ないと、努力は遮断されると思う。
努力できるということは、そのことに対して才能があるということで、才能がなければ努力すらさせてもらえない。厳しいけどそんな気がする。
会社なんかで物凄く頑張っているのに、全く結果がついてこない。あいつダメだな、左遷だ、部署異動だ、なんてことになると、そこでその人の頑張りは遮断される。
野球で打てない、抑えられない、守れない、ボクシングで何度も続けてKO負けする、など、凄く好きで頑張っているのに結果がついてこないと努力はやはり遮断される。
ある人が大好きで振り向かせようと頑張っても、相手がそもそもあなたの顔が好みじゃない、ケタ外れのお金持ちが好き、身長がいくら以上とか、年齢がいくつまでとか努力でどうしようもない条件を提示されると、これまた努力は許されない。それがなんじゃいと、別に頑張ってもいいけど、ストーカーなんてものに分類される危険がある。
自分で今やっていることを鑑みて、努力の余地があるものは、そこに才能があると考えていいと思う。どこかで壁に突き当たり、努力が許されない状況に追い込まれるかもしれないけど、今のところ、そのことに対して何かまだ頑張れるなら、そのことに才がある。そう思う。
斯様に努力と才能は不可分。才能が努力を促し、努力が才能を開花させる。
人によりそれは勿論大小はあるだろうけど、それこそ世界に一つだけの花。嗚呼また安いJ-POPを引用した。誰に対して分かりやすさを提供しようというのか。人目のあるところで人目を気にしない。そんな文章が書きたいのに。
兎に角、咲いた花はいずれも美しいものだと思う。本物の花に特に好きなものはなく、花を見て綺麗だと思ったことはあまりないのだけど。
やばい感じはしていたので、今まで観なかった。
あらゆる職業の中でも最高峰に難しいと思っている映画監督。
だから映画というものを全てリスペクトしているし、しようと思っている。
だから、つまらなかった。なんてことは言いたくないし、言わない。
が、こう言うともうつまらなかったと言ってるようなもの。だよね。
しかし、つまらなかったというのは、他の映画と相対的に比べてみてのことで、観て損したとかそういう話ではない。本当に何も得られない映画なんてものは存在しない。
アニメが充分に面白いのに実写化する意味があったのか。それは疑問。小栗旬のアニメルパンに寄せていってる感がちょっと痛々しい。ならアニメ観るよ、って言っちゃいそうになる。批判にさらされても、そこは役者魂、彼なりのルパンを見たかった。
この作品でも、銭形警部はルパンに翻弄される。いつまでもルパン逮捕という結果を残せないのに、ずっとあの地位にいるということは、ルパン逮捕の可能性を上層部が感じているということで、失敗続きでも、ルパン逮捕の才能が彼にはあると思われてるのだろう。だから努力を許される。
効能
ルパンの度量。銭形の頑張り。不二子怖い。
今自分に許される努力ってなんだろう。
そんなことを。
不一。
つよいとかよわいとか。
今月から近所のボクシングジムにダイエットコースで入会したわけだけど、運動をするからだろう、物凄く腹が減る。なので、食う。家にあるものを片っ端から食べてしまう。すると当然だけど、太る。ダイエットコースに入会したのに、半月で2キロ太る。このままの感じが続くと、バタービーン。いかんなと思い食欲を抑えようと思うのだけど、空腹抑えがたく、せんべいやらチョコレートやらをちょいちょいつまみ食い。このままじゃ、ジムにも迷惑かかる。通ってるオッサンがどんどんブタになっていくとか、ダイエットコースの沽券に関わる。
パンチはまだまだ全力で打てない。下半身が全然粘らないし、手首は痛いし、変なところが当たるから拳も痛い。イメージに筋力が付いてこない。そら当然だ、このプリン体だもの。
しかし、強いパンチが打てたところで、それは対人間ということで、自然には勝てない。地面が大きく揺れるなんてことを、地面に思い切りパンチを打ち込んで止める。なんてことは当然できないし、大きい台風にカウンターを打ち込むごとくパンチを打ち込んだところで、台風が止むはずもなく、阿呆が台風の日に外でシャドーってだけのことだ。さらにいうなら、対人間ということでも自然が生み出した巨人、チェホンマンとかヒョードルとかクリチコとかあの辺の規格外に渾身のパンチを打ち込んだところで、蚊に刺された程度のダメージも与えられないだろう。虚しいな。別に今更強い弱いを基準に身体を動かしたりはしないけど、ボクシングジムという場所の性質上、ああいう場所にいると、そのことを少しは考えるわけで、脆弱な自分に忸怩たる思いは多少あったりなかったり。
自然の機嫌ひとつで人間なんて右往左往。この場所を間借りしていることを忘れて、傍若無人な振る舞いを続けていられるのも、地球がいい大家さんだから。そのうち怒って追い出されるかもしれない。でも文句言えない。所詮人間。
「GODZILLA」 2014年 アメリカ 監督 ギャレス・エドワーズ
これは何だろう?人間の物語部分が凄く上滑りしているというかリアリティを激しく欠いている気がした。怪獣に対する人間の猿知恵に苦笑。
フォーカスされた家族は無事を喜んで抱き合ってるけど、周りの惨状を考えると、全然ハッピーな気分になれない。とんでもない数の人間が死んでると思うんだけど。
渡辺謙は、英語があんまりなんだろうか、セリフが全部短い。寡黙な学者。言わなくちゃいけないことも言わない感じにヤキモキ。
効能
ゴジラが粋。自然には勝てない。不言実行。
不一。
なんだかね。
昨日はひと月に二三度ある、15時から22時までの勤務だった。会社で二勤と呼ばれる勤務時間。
何度経験しても、この時間の勤務は好きになれない。朝から何処かに出かけても、昼頃にはそわそわするし、仕事終わりで遊びに行こうにも、22時からなんて誰も遊んでくれないし、行くところも限られてくる。勤務時間こそ普段の12時間に比べれば半分程度なのだけど、一日が潰れるということでいえば同じだ。
出勤途中、携帯が不穏な音をたてる。あまり耳慣れないビープ音に気を取られたものの、運転中だし、カバンのどこに携帯が入っているかも分からないから、面倒に感じて放置していた。会社に着いて携帯を見ると、どうも地震があったらしい。このあたりは震度3だったらしい。
家では睡眠障害だろうか、ってくらい眠れないのに、会社に着くと眠くなる。なんだこれ。アクビが止まらない。ブラックブラックなる眠気に効くらしいガムを噛む。するとミントが強すぎるのか、今度はクシャミが止まらない。
マンネリを感じて久しい仕事を、いつもどおり何となく消化し、時間は22時、家に帰りつく時間は真っ直ぐ帰れば22時半。日頃21時過ぎには就寝する母親に、こんな時間から食事の用意をさせるのは酷。なので、この勤務時間の日は、帰りになにか買って帰る。大体、吉野家かマクド。
今日は何だか吉野家の気分だなと思い、吉野家の前を通ると、どエライ人だかり。嘘だろ。こんな時間に何故吉野家激混みなんだろう。かなり待たなくてはいけない雰囲気。待ってまで食べたくない。スルーしてコンビニ。
帰って、映画を観つつ食事。
「アレクサンダーの、ヒドクて、ヒサンで、サイテー、サイアクな日」
2014年 アメリカ 監督 ミゲル・アルテタ
酷くて悲惨で最低最悪でも、家族の結束が深まる、好きな子といい感じになる、オヤジ就職決まる、など結果超オーライな結末は、総合すれば、とてもいい一日。
なんの起伏もなく、手もなく一日が終わる僕の二勤に比べれば、最高の一日に思える。
効能
前向き。ポジティブ。家族愛。人間万事塞翁が馬。
不一。
けっきょくね。
結局ね、やってることは変わらないから、以前にやっていたものと同じような流れになるんだろうと思うんだ。このブログ。
ブラック企業で一日の大半、月のほとんど仕事して、少しの自由時間に映画観て、本読んで、ちょこっと運動なんかしたりして。
そんなことしかしてないのだから、そんなことのうちから何が生まれるのか知らんが、そんなことの内容を書くしか書く事がないけど、それをそんなことって言っちゃったら何だか哀しいから、何とかそんなことに意味を付与したいなと思うのだけど、意味が付いたら付いたでもっとつまらなくなってしまう可能性もあるわけで、つまるところどこまでもカオス。
以前のブログでお付き合いのあった方が言っていたのだけど、映画なんてものは所詮作り物。これ、そうだよな。そう思うのだけど、それが何を意図して作られた作り物かということは結構重要だと思っていて、何か強烈に伝えたいことがなければ、あんな面倒なもの作らないと思う。人が日常付く、何かを隠したい、相手を陥れたいみたいな我利我利の嘘とはアプローチが違って、何かを提示したい、現実だけでは説明できない概念を表現したい。明確なテーマを伝えたい。そんな「嘘も方便」的な作り物。みたいな側面を映画や小説には感じていたりする。無論、それらに携わる人たちも慈善事業でやっているわけではないから、商業的な側面も大きくある。しかし、それが強すぎると、人が日常付く嘘と距離が近い感じになって、何だか意味が曖昧、テーマがぼやけてる、何が言いたいのかしたいのか分からない、見え見え、薄汚い、あざとい、みたいなものになることも多々あるように思う。けど、それはそれで、何だか人間の業みたいなものが作品の外側から伝わってきて、作品そのものよりも何だか大きなテーマを感じたりする。作り物でしか伝えられない真実もまたある。というか、僕はアホだから、いろいろな例を引いて、もうこれ離乳食かな?くらい噛み砕いてくれたものでないと、理解できない。もう大人なんだから、しっかりと自分で咀嚼できないと。そうは思うのだけど。
10月の頭から、近所のボクシングジムにダイエットコースで入会して、今日4回目の練習に行ってきた。「神の左」に憧れて、オーソドックスの僕は「オレの右」を完成させるのが当面の目標だ。嘘だ。アホだ。右を軽くサンドバッグに打ち込んだだけで、手首に激痛が走り、ケツが肉離れか!?ってくらい痛んでもんどりうったオッサンが何を言ってる。でも、22年ぶりのボクシングは楽しくて、いやそもそも運動自体も22年ぶりであるから、その錆付き具合といったらもう筆舌に尽くし難いのだけど、身体を動かすのは楽しい。楽しかったんだね。公園を走る人とか、水泳やたらする人とか、金ももらえんのに、何が楽しいてあんなこと。とか思っていたのだけど、楽しかったんだね。いつまで続くか分からないが、今のところ楽しい。でも身体痛い。全身痛い。情けない。
不一。