とびら。

年を取るということは、長く生きているということで、長く生きているということは日々をたくさん経験しているということで、それらの経験体験が良くも悪くもそれなりに蓄積して、目の前の扉を開けることが億劫になる。

一つの扉を開けると、そこには部屋があって、その部屋にはたくさんの扉。

その部屋が気に入らなければ、どれか一つを選んで扉を開けて、次の部屋へ行く。

若い時は貪欲で傲慢で世間知らずでトータル阿呆だから、自分はこんなところにいる人間じゃないなんて嘯いて次々扉を開けて、良い部屋悪い部屋をたくさん通る。

そしてのち年を重ねると、あの部屋良かったな、今のところよりずっと良かった、何であそこ出ちゃったかな。でも、そのあとのあの部屋よりは今のところの方がいいよな。ってかもうここでいいよね。このくらいのことでしょ、俺なんて。と誰に対してか分からぬ不貞腐れた妥協なんかで、扉を開けることを半ば放棄したりする。

酸いも甘いも経験するなんていうけど、それが良いことか悪いことかも経験が下手にあるせいで分からなくなったり。

その不可解が次の扉に対する行動をいちいち躊躇させる。

そして、今いる部屋に長くいることになる。そうすると、生きていると人間ゴミを出す。そのゴミが長く居れば居るほど山積して、扉を塞ぐ。

そして、いざその部屋を出ようと思っても、ゴミが邪魔して出ることがかなわない。

誰かが向こうから開けてくれても、ゴミのせいでこちらを確認出来なくて、なんだ留守か。なんて言って帰ってしまう。

昨年からこっち、自分は今いる場所が大嫌いだった。だから扉を開けようと、それはもう随分前から思っていたのだけど、ゴミがすごかった。これを片付けるのにえげつない労力を強いられた。

無駄なあがきか?なんて途中折れそうになりながらも、何とか片付けを続け、ようよういくつかの扉が見えてきた。選んでいる余裕などない。どれを選んでもここよりはきっといいだろう。そう思い、少しでも今の部屋から遠ざかろうと目の前に現れる扉を立て続けにいくつか開けた。

これが、思惑通り功を奏し、ようやく人心地つける部屋に今はいる。

その開けた扉の一つ。

根っからの引きこもり体質で、一人で外食も出来ないダメンタルの僕が、名古屋へ単独行した話はやはり書いておくべきだろうなぁ。

その単独行で、この年にして新しい友達が出来た。

名前は「アキちゃん」

男なのか女なのか分からない響きであるけど、同じ年の男だ。しかも立派な男の中の男だった。あまりの立派さに圧倒され、自分のへなちょこぶりが浮き彫りになってちょっと凹んだが、彼の友として、それに恥じぬ男になろうと、良い年して刺激を受けた。グッドバイブレーション。

アキちゃんなんて、ここでは気さくに呼んでいるけど、面と向かって呼んだことはない。

そんなアキちゃんとの出会いをまだ記憶が鮮明なうちに近々書こう。

12月の多忙が記憶を殺してしまう前に。

不一。

 

 

 

 

 

ごりすね。

子どもの頃に夏休みなんてのが来ると、ひゃっほう、一ヶ月休みだ、ほぼ無限にやすみじゃん、宿題?余裕っしょ、そんなの最後の一週間でやればいいじゃん。なんて放置して、いつも間に合わず、なんだったら、どこに放置したのかも忘れて紛失、宿題丸ごとやらなかったなんてことが思い出だったりする。

サッカーなんかでも45分?40分?詳しくは知らないけど、それを前後半に分けて競う。

野球だと9回までの表裏。ボクシングだとタイトルマッチは3分12ラウンド。

どんな仕事にも大抵、納期締切など期限がある。

だから、頑張るのだと思う。制限の中で結果を求められるから、その間頑張る。

大きく人生もそうで、「死ぬまで」という期限の中で、やりたいことがあるならやっておかないといけないし、やりたくないことからは逃げ続ければいい。

これが何でも無制限なら、誰も頑張らないと思う。

100対0で負けてても、そのうち逆転すればいいんじゃない?時間はいくらでもあるわけだし。ってか終わりないし。みたいな。

仕事を依頼されても、まぁ別に今やらなくても、そのうちでいいんじゃない?相手方も、そうですね、別に急ぎませんから、思い出したときにでもやってくれれば。

とかだったら、誰も頑張らない。

制限というのは、課されると凄く厭な気分になるもので、その厭な気分には責任感、自分の評価を貶めたくないという欲、相手に対する気遣い、結果に対する恐怖、いろんなものが含まれていると思うのだけど、しかし、これあるがことによって世の中は成り立っているとも言える。

だから、人間死ねてラッキー。・・・ん?いつものことだけど、何げに不謹慎。かつ意味不明瞭。

 

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デッドプール」  2016年 アメリカ 監督 ティム・ミラー

主人公は、人体改造で妙なものを身体に注入されて望まず不死身の身体を手に入れる。

死なないという設定上、ノリが軽い。物凄い手傷を負っても、死なないのだから、深刻にならない。

しかし死ねないというのも難儀なものだ。

死なない割にこの主人公は何かと頑張っていて偉い。

僕は平均で物を語るのは好きでないけど、今の年齢を平均で考えれば、もう人生の折り返し地点を過ぎて割りと死ぬということを意識してもいいはずの年。なのにアホみたいに今日も明日が普通に与えられていると考えているフシあるよね。それに希望を持ったり、重荷に感じたりする時もあったり。

スポーツや仕事なら目標は明確だけど、人生なんて漠然とデカいのか小さいのかすら分からないものの中に目的目標を見つけるのは難しい。僕だけかもしらんけど。

だから、大きな目標が見つかるまで、小さな目標をコツコツと・・ってタイプでもないし。何だか今日も五里霧中。

不一。

 

 

 

 

まんなか。

日々は定形の姿をもって多忙。

日常が忙しい。大した起伏もなく幸でもなく不幸でもなく、というか、幸とか不幸ってのはかなり後々分かることが多くて、今の状態はきっととても幸福なんだろうけど、それは常に不幸を内包しているものなのだろうし、手放しで幸せを喜ぶには自分は少し歳を取りすぎたのかもしれない。

良かれと思ってしたことが裏目に出てかなり参ったり、意想外の出会いに恵まれて少し浮かれたり、こういうのを起伏というなら起伏もあると言っていいのかもしれない。

何もないようで、いろいろあるもんだ。

終わったようでいて、意識あるうちはどうにも続いてしまうもんだ。

所々抜け落ちた記憶は、意識が拒否したのか、単に頭が悪いだけなのか。

でも忘れるからこそ、生きていける。賢すぎる人間は大抵自殺する。

阿呆で良かった。これまでの来し方を振り返るに、全て記憶していたら、到底生きていけまい。

日常が忙しい。これは取りも直さず、社会に出ている自分が忙しいということで、社会にいるあいだは、自分の世界は留守で、世界がなおざり。

もう少し、こちらにも配慮するべきだ。というか、そこを豊かなものにするために生きているのが人間だろう。

多忙を言い訳になおざりにした世界。知らぬ間に割りと荒廃。

そろそろ落ち着いてちゃんと片付けよう。

怠けたな。忙しさを言い訳に。

言ってること変かな。

自分的には超正論なんだけど。

必ずどちらかに嵌るやじろべえ。上手く真ん中を歩けない。

不一。

 

 

 

 

いきてる。

ジム通いを始めてひと月半程度が経過した。

先月は無理やりも含めると10回程度は行くことが出来たから、始める前は月に4,5回行ければいい方かなと考えていたことを思えば上々。

最近は心肺機能は相変わらず全然ついてこないが、翌日の筋肉痛に悩まされることもなく、いい感じで運動不足を解消出来ているように思う。

しかし、筋肉痛にはならなくなってきたのだけど、関節にくる。年なのか。これが老化なのか。手首、膝、腰が少し激しめに動くと翌日かなり痛む。

あいてて、いてて、などと言いつつ歩いていると、これが苦痛かと思いきや、何だか生きている実感があって意外と厭じゃない。

少し前までは、生きている実感が希薄で、本当に何も感じない、ただ朝が来るから仕事に行って、夜が来るから寝て、話しかけてくるから答えて、あ~面倒だな。生きるって面倒だ。なんてことを思っていたりした。

しかし、自分から能動的に動き手にした痛みは、受動的に与えられた慰めやちょっとした幸運などより余程快い。

どうでもよかった人生が、今ちょっと生きてて良かったと思えるようになってる。

でも、幸福を疑う癖がついてしまっているから、どこか引っ掛かりを感じているというか粗を探してしまう。みっともない。

例えそれが仮初の幸福でも、それを感じるなら、それにそのときは浸りきる。そうあるべきだ。

そう思っているのに、上手く出来ない。めんどくせぇ人間だな。あ~生きるってやっぱり面倒だ。けっきょく、そこ実家?ってくらい同じところに戻ってくる。

バカは死ななきゃ治らない。とはいえ、バカを治すために死ぬ奴もそれはそれでバカだろうよ。

 

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「レヴェナント 蘇りし者」  2015年 アメリカ 監督 アレハンドロ・G・イニャリトゥ

あの「ギルバートグレイプ」や「バスケットボールダイアリーズ」なんかで、かわいかったディカプリオがこんな重厚な演技をするオッサンになるんだから、僕も年を取るわけだ。そら関節も痛むわ。

目の前で息子を殺された男の復讐劇。といえば、相手は人間。かと思いきや、自然が復讐劇の前に大きく立ちはだかる。

どこまでも峻厳な自然の中復讐を胸に生きる男の執念。

ディカプリオ男前。

効能

生きる力。しかも半端なく強い意志で生きる力。自然の脅威。人間愛。

不一。

 

 

けっきょくひと。

トランプとかいうオッサンがアメリカの大統領になったらしい。

政治なんて聞いただけで頭が痛くなりそうなことを、もちろん僕は知らないけれど、あのオッサンは何だか嫌いだ。品性が感じられないし、傲慢さが顔に出てるし、感謝なんて単語すら知らなそうだ。実際の人となりは分からないけれども。

と、それはいいとして、最近、人に恵まれる、いや以前から僕は人には恵まれてきたけど、特に最近、とても人に恵まれている気がする。

一度は世捨て人みたいな精神状態で、いわゆるところの社会生活はそれなりに何食わぬ顔風を装って続けていたけど、もうどうでもいいや。みたいにただ日々を消化していた。しかし、外界からの刺激で死んでた精神が息を吹き返した感じがある。

人はやはり人の間で生きて始めて人間なのだな。と当たり前のことをいたく実感。

人から力をいただくと、今度はこんな自分に何が返せるだろうと、返報性にがんじがらめになるけれど、その為に頑張ろうと思うこともまた人生にとっていい刺激なんだろうと思う。

 

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「サウスポー」  2015年 アメリカ 監督 アントワン・フークア

基本的にボクシング映画は好まない。

実際のボクシングに優る臨場感は出せないし、一試合に懸ける意気込みが女のためとか子供のためとか取ってつけたようで、何だか甘ったるいものが多いし、人物にしても、実在のボクサーの人生の方が余程数奇で起伏に富んでたりするから、ボクシングは本物に限る。というのが僕の考え。

しかし、観ないというのではない、気になるから、余程駄作臭がするもの以外は取り敢えず観る。

で、これは評判もよく、主演がジェイク・ギレンホールということもあって、観てみた。

ボクシング界の裏側的な部分、悪徳プロモーターとかスター選手の凋落具合とかちょっとやりすぎの感は否めない。ディフェンスを知らないボクサーが43戦無敗とかいうのもちょっとリアルじゃない。

しかし、敗戦後出会ったトレーナーとの人間同士が響きあうような関係は、グッときた。母を喪った娘との関係なんて、バカの目にも涙。

何だかんだ、素敵な映画。

 

効能

ジェイク・ギレンホールの身体の仕上がり。父娘の絆。師弟を超えた人間関係。

 

不一。

 

いいかんじ・・かも。

自動車も動かなければ事故らない。ペットなど飼わなければ死に別れもない。人間となど出会わなければ、身を切るような別れもない。

 

しかし、動かなければ目的地には着かないし、人や動物とも出会わなければ、動くための活力はどこから?

 

リスクを冒しても動き、悲しみの予感にもめげず関係を築き、生きていく。至極真っ当。

 

そんな当たり前のことがずっと出来ないでいた。去年くらいから。仕事はやらなきゃ肉体が生きられないので、のらりくらりと何とか続けていたけど、精神的には勤労意欲を完全に失ったホームレスみたいな感じで生きていたように思う。

 

何せ心が動かなかったのである。

 

ところがここ最近、凄く心が弾む出来事があって、今楽しい。

 

けれども、新しい関係に伴う未来のあれこれ煩雑さを思うとちょっと億劫にもなる。

 

だからといって、止まるわけにはいかない。

 

リスクはどんな些細なことにだって、必ずある。それを上回る感動、優しさ、喜び、思い出、などがそこにはきっとある。

 

事故が怖いから動かない。いつかの終わりが怖いから始めない。

 

それじゃ、いつまで経ってもどこにも行けない何もできない。

 

明日は誰にも分からない。だから動く?だから動かない?

 

どちらでも自由なんだけどね。そんなこと。

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「リアリティー」  2012年 イタリア フランス 監督 マッテオ・ガローネ

 

一攫千金を狙えるテレビのオーディションに合格したと思い込んだ男。出演準備のために自らの営む店を畳んだり、声をかけてくるホームレスもテレビ関係の仕込みだと疑い、過剰に施しをして家財がなくなっていったり、それに愛想を尽かして家族が出て行ったり。

受かってもないオーディションになまじっか手応えを感じてしまった男。狂騒の果てに何もかも失う。

 

効能 

捕らぬ狸の皮算用。

 

不一。

 

 

 

どりょく・・か。

ものすご頑張る人のことを「努力の天才」とか言ったりするけど、頑張るにはやはりその頑張る対象に対しての才能がある程度ないと、努力は遮断されると思う。

努力できるということは、そのことに対して才能があるということで、才能がなければ努力すらさせてもらえない。厳しいけどそんな気がする。

会社なんかで物凄く頑張っているのに、全く結果がついてこない。あいつダメだな、左遷だ、部署異動だ、なんてことになると、そこでその人の頑張りは遮断される。

野球で打てない、抑えられない、守れない、ボクシングで何度も続けてKO負けする、など、凄く好きで頑張っているのに結果がついてこないと努力はやはり遮断される。

ある人が大好きで振り向かせようと頑張っても、相手がそもそもあなたの顔が好みじゃない、ケタ外れのお金持ちが好き、身長がいくら以上とか、年齢がいくつまでとか努力でどうしようもない条件を提示されると、これまた努力は許されない。それがなんじゃいと、別に頑張ってもいいけど、ストーカーなんてものに分類される危険がある。

自分で今やっていることを鑑みて、努力の余地があるものは、そこに才能があると考えていいと思う。どこかで壁に突き当たり、努力が許されない状況に追い込まれるかもしれないけど、今のところ、そのことに対して何かまだ頑張れるなら、そのことに才がある。そう思う。

斯様に努力と才能は不可分。才能が努力を促し、努力が才能を開花させる。

人によりそれは勿論大小はあるだろうけど、それこそ世界に一つだけの花。嗚呼また安いJ-POPを引用した。誰に対して分かりやすさを提供しようというのか。人目のあるところで人目を気にしない。そんな文章が書きたいのに。

兎に角、咲いた花はいずれも美しいものだと思う。本物の花に特に好きなものはなく、花を見て綺麗だと思ったことはあまりないのだけど。

 

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ルパン三世」  2014年 日本 監督 北村龍平

やばい感じはしていたので、今まで観なかった。

あらゆる職業の中でも最高峰に難しいと思っている映画監督。

だから映画というものを全てリスペクトしているし、しようと思っている。

だから、つまらなかった。なんてことは言いたくないし、言わない。

が、こう言うともうつまらなかったと言ってるようなもの。だよね。

しかし、つまらなかったというのは、他の映画と相対的に比べてみてのことで、観て損したとかそういう話ではない。本当に何も得られない映画なんてものは存在しない。

アニメが充分に面白いのに実写化する意味があったのか。それは疑問。小栗旬のアニメルパンに寄せていってる感がちょっと痛々しい。ならアニメ観るよ、って言っちゃいそうになる。批判にさらされても、そこは役者魂、彼なりのルパンを見たかった。

この作品でも、銭形警部はルパンに翻弄される。いつまでもルパン逮捕という結果を残せないのに、ずっとあの地位にいるということは、ルパン逮捕の可能性を上層部が感じているということで、失敗続きでも、ルパン逮捕の才能が彼にはあると思われてるのだろう。だから努力を許される。

効能 

ルパンの度量。銭形の頑張り。不二子怖い。

 

今自分に許される努力ってなんだろう。

そんなことを。

不一。