エネルギー。

人は皆何らかのエネルギーを持っていて、それが陰に働くにせよ健全に陽に向かうにせよ確かに誰にも何らかの力がある。生きていれば何ものにも影響を与えずに生きていくことはできないし、また影響を受けずに生きていくことも出来ない。

たくさんの人が発するエネルギーの間を身をよじりながら、あるいは躱しいなしながら、または受け止めながら、押されながら、流されながら、抗いながら、生きている。

自分の中にエネルギーを自覚して、それをぶつける対象がある人は幸せだ。

さらにそれが、勉強、スポーツ、仕事、趣味、など健全なものに向かう人はさらに幸せだ。人に理解を求めるというムダが省けるから。

だけれども、希に、いや結構数いるのかもしれない、考えればむしろそっちの方が多いのかもしれないとまで思えてくるのだけど、エネルギーをぶつける対象が見つからず、浮遊したそれを持て余す人、もしくは人に災厄を与える、迷惑のかかることにしかぶつけられない人がいる。

生まれてしまった力は、必ずどこかに作用するのだから、できるだけ早い段階でいい対象を見つけてぶつけたいものだけど、そうそう上手くはいかない。

幸せの種と不幸の種は同種のもので、芽が出るまで分からない。

今日の喜びが明日の哀しみに変わることなんて、世の中の常だ。

 

https://iwiz-movies.c.yimg.jp/c/movies/pict/p/p/94/d8/169124_02.jpg

 

「ディストラクションベイビーズ」  2016年 日本 監督 真利子哲也

街ゆく人を襲う彼らの常軌を逸した行動は、使い道の分からない持て余したエネルギーの発露がもたらした暴力によって傷つけられた人は勿論、暴力を振るった彼ら自身もその犠牲者と言えそう。

もっとそれだけのエネルギーが他に向いていれば。と思うけど、若さ、未熟、無自覚、承認欲求、様々なダメ要素が混沌と混ざり合いどす黒く噴出した結果、行き着くとこまで行ってしまう。

明るい不良の暴力ではなく、陰にこもった絶望的な暴力。

通常のケンカなどは、殴り合ったあと、お前やるやん。お前こそやるやん。飯でも食って帰らん?ええな。みたいな新しい関係を残したりするもんだけど、この作品の暴力は全てを破壊する。自分自身まで。絶望的だな。

何だか胸苦しい思いがあとに残る。

効能。

エネルギーは正しくつかうべき。という常識的だけど実はひどく難解な問題。

 

僕の中にも浮遊してるよ。エネルギー。頼むからいいところにぶつかってくれよ。

変なところにぶつかったら、それの責任、後片付け、再構築あるいは新たに何かを構築することにまた別のエネルギーがいる。そして、そういう時に限って、それが出来るだけのエネルギーが無かったりするんだよ。これまでの感じだと。

不一。