なんにでもっていわれても。

今の時代志せば、何にでもなれるし、どこに行ってもいい。

昔は士農工商なんて言って、生まれついた身分以外のものにはなれなかったし、自分の生まれたところをさしたる理由もなく少し出ただけで、脱藩などという重罪。

さぞかし息苦しかったことだろう。というのは、現代人の勝手な想像で、外の世界を知らなければ、それはそういうものだと考えて、周りも皆、それを当たり前に信じていたので、さしたる不自由は感じていなかったのかもしれない。

現代は確かになりたいものになれる。いや、なれないかもしれないけど、なれるチャンスは皆にある。建て前上は。

しかし、このなりたいものになれることを喜ぶのは、なりたいものがある人だけで、ない人は、ないことに苦しんだりする。あるいは何も見つからず、あるいは何もやる気が起きずニートになったりする。

士農工商の時代では否応なくやらなくてはいけないことがあったろうから、ニートにはなりにくい。次男坊三男坊でしかもアホ。みたいな人はニートだったかもしれないけど。

穀潰しなんて言葉があるから、恐らくその時代にもニートはいたのだろう。

何にでもなれる。ちょっと聞くと耳触りが良く、ドリーミーな言葉に聞こえるけど、何にでもなれるということは、裏を返せば何者にもなれぬ可能性を大いに含んでいる。昔ならば、厭でも百姓、ヘタレでも武士、センスなくても商売人、不器用でも職人など、世襲制により、それ以外にはなれぬけれども、身分は保障されていた。しかし今の時代は、何にでもなれるけど、何にもなれない危険性もあって、仮に何者にもなれぬと、自己責任なんて残酷な言葉で突き放され、社会から疎外される。

無論それで死ぬわけではないけど、なりたいものになれない、なりたいものがない、そもそも何もやりたくない、結果気づけば健康なのに生活保護。みたいな人は、士農工商に憧憬を抱いたりするのかもしれない。

なりたいものになれる現代、なりたいものになれている人がどれだけいるだろう。

なりたいものになれなかったが、なりたくないものになりたくないから、今のところで妥協している、頑張るしかない。という人が少なくない気がする。

自由と希望。それと引き換えに手に入れた未来に対する猛烈な不安。

それでも人は自由であるべきか、希望は大切か。

特になりたいものなどないけど、なりたくないものになりたくないから、ブラック企業にぶら下がっているけど、これは自由か、ここに希望はあるか。

などと、盗んだバイクで走り出しそうな青い考えが時折頭を掠める。

進むも退くもなんだか中途半端で、ぼーっと立ち尽くしていると気づけば明日が来て、明後日が来て、ひと月が過ぎて、半年が過ぎている。益体もない40の夜。

 

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ズートピア」 2016年 アメリカ 監督 リッチ・ムーア

性別も種も超えて、なりたいものになる。

その為に努力し、その夢を叶える環境のあるところへ行く。

大人が見ても考えさせられるテーマが分かりやすく散見される。

普通に考えれば、大人が観てクソなものを、子供に観せようとは思わないだろうから、当たり前か。

将を射んと欲すればまず馬を射よ。ってか。

それもなんだかな。

 

不一。