なにひとつ。
どんなに偉そうな事を言っても、何一つ自分の力では成し得ないし、維持もできない。
この文章だってこのパーソナルコンピューターがなければ打てないし、仕事にだって車がないと行けないし、人との関係も携帯電話がなければ維持できないし、ご飯だって誰かが栽培あるいは畜産、製造してくれないと食べられないし、洋服だって誰かが布を作って、それを上手く縫ってくれる人がいないと着るものがないし、普段自分と思っている自分の如何に心許ないことか。
今持っているもの、人間関係、仕事、習慣、何一つ自分の力だけで成り立っているものなんてない。人間が個人的に威張っていい理由なんて実は何一つない。思い上がるなダボが。とこれは誰にってこともない単なる流れで出た暴言。
誰にも言えることだけど、誰もがいつの間にかもしくは不意にあるいはいつでも失念してしまうこと。どんな人でも人の世話にならぬ者はいないし、誰のためにもなってない人間もまたいない。内容、質において差はあれど。
なんてことを考えていると、感謝より先に羞恥の感情が湧出。
様々な現代の恩恵に浴していながら、自分は何をやっているのだ。与えられるそれら、手にしているたった一つの物でさえ奇跡であるのに、さも当たり前の顔でそれを無駄に消費する。バチバチに罰が当たればいい。傷つくのは自分だけど、きっとどこかカタルシスを感じるんじゃないか、なんて気もする。罰によって。
嗚呼ちゃんと物の価値、時間の価値、人の価値、見えるもの見えないものの価値をしっかり分かる人になりたい。ひとつのものから伸びる糸のさきがちゃんと見える人になりたい。が、なれまい。雑だから。生き方が。
「世界から猫が消えたなら」 2016年 日本 監督 永井聡
ちょいネタバレ。
不治の病に囚われた主人公。余命を伸ばすために、世界から一日ひとつずつ何かを消す。
電話、映画、・・そして猫。
考えさせられる物語だったな。
些細に見えるものにも自分を自分たらしめている何かがあるんじゃないか。
普段気にもとめないものの中に自分の大切な何かがあるんじゃないか。
自分に見える範囲なんていう極々狭い世界の中に、自分に関係のないものなんて何もないんじゃないか。興味がないだけで、関係はあるんじゃないか。思っているより深く。
そんなことを。
なら触れられるものなんてどれだけ影響を受け影響を与えているのだろう。
自分の周りを微細に観察、省察、再考、再確認。
そんな気持ちに。
効能。
当たり前のことが当たり前ではない可能性を示唆。何気なく手にしているものが実は得難いものである可能性の示唆。思い上がり防止。
不一。