憂鬱やな。

人間が生きていくには、他の生命を犠牲にせざるを得ない。他の命を食べて今日も生きている。朝から牛の肉を食べた。キャベツを食べた。米を食べた。そうして長らえている命で、何をしているのだろうか。特に何もしていないのである。これはなかなか由々しき問題。しかも長年月こんな感じで、ただ自分が生きるためだけに働き、自分のためだけに食べ、それを他に還元することもなく生きている。

せめて正しくありたいと思っていても、今している仕事は果たして正しいのだろうか。原発がどうとかってときに、電気をバンバン使って動かす機械を操作し、本当にこんなに必要なんだろうかと思う量の金属を闇雲にトラックに積み込む。疑問は感じても、手を止めると日々の活計を得られない。自らも機械になったような心持ちで作業を続ける。時間が来るまで延々続ける。毎日毎日。

業種によっては、良くない部分があると知りながら、その商品を売らなくてはならない人もいるだろう。社会的によろしくないし、人間的にクズだと思いつつも、仕事の便宜上付き合いを断てない人がいる。なんて人もいるだろう。正しさというバックボーンがなければ、人はどんどんひ弱になる。矢鱈と言い訳がましくなる。

仕方が無かった。

何故?

生きていくため。

何のために?

・・・・・・・。

働く人全てに欺瞞がなく、あらゆる行動が自他の為になり、誰も損をせず、不満も不安も不可解な部分も受け入れざるを得ない不条理もない。

そんな仕事はない。僕がアホで知らんだけかもしれないけど、無いと思う。

それこそ、人が他の命を犠牲にしないと生きていけないように、自分の中の何らかの部分を犠牲にせずに働ける仕事などないと思う。

自分に強いる犠牲があまりに大きいと、人は壊れる。

こういうとき、アホで良かったと思う。自分の何を犠牲にしているかよく分からないのだ。確実に不平不満不安を抱えてはいるのに。憤ろしい気持ちは常にあるのに。
しかし、その正体が分からない。あるいは敢えて分かろうとしていない。

今の生活を維持するために、犠牲と報酬のバランスは釣り合っているのだろうか。さらに言えば、今の生活などというものを維持しなくちゃいけないものだろうか。それも分からない。

給料の内だと下げる頭。下を向いてちゃ、上はおろか、前も見えない。

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「ティエリートグルドーの憂鬱」 2015年 フランス 監督 ステファヌ・ブリゼ

50過ぎでリストラに遭った主人公のオッサン。

国の制度を利用して職業訓練など受けるが、仕事が見つからない。

子どもに障碍があり、お金が必要。なのに仕事が見つからない。

持っている不動産を売却しようと目論むも、足元を見られ、交渉途中で腹を立て追い返す。

切迫してくる生活。忍び寄る貧困。

やべぇ・・。と思っていた矢先、スーパーの警備員?万引きGメン?的な仕事にありつく。

そこで雇用先の企業の無慈悲な方針や、他の人々の生活を知り、人生に無常を感じる主人公。

ラストシーンはあれはどういう解釈をしたものか。

職場を後に走り去る主人公の車。不条理に目を瞑り、明日も出社してくるのか。それともそのまま違う道を模索するのか。

彼の現状を考えると、折角手に入れた職をそう容易く手放す訳がないような気もする。

自分を騙して、会社の方針に従い唯々諾々と生きていく。あくまで家族の為に。

労働する人の大半がおそらく抱くであろう悲哀を淡々と表現していた。

しかし、この映画を100万人の人が観たフランスって・・。

大変なのはどこの国も同じか。

どこの国にも、いるのは結局人間だもんな。

不一。