絶望ねぇ。

来月には41。バカボンのパパと同い年。

これだけの間、人間を続けてくると、「絶望」したことの一度や二度はある。

・・・はずだ。だけど忘れている。多分あったろうと思うのだけど、具体的な絶望を何に対してどのくらいの大きさで感じたのか覚えていない。というか、今生きている時点で、あれって実は絶望ではなかったんじゃないか。と思う。望みが絶たれると人は生きていけないと思うの。と頭の中で、希に開店するスナックつりをのママ、吊り代が言う。

じゃあ僕が今まで絶望だと捉えていたものは、ただの失望だったのかもしれないな。

どう違うのか知らないけど。失望だって望みを失うのだから、ダメージ的には似たようなものだと思うのだけど、失っただけで、また見つかる望みはあるから、絶たれるよりはマシなのかもしれない。

しかし、そう考えると、やはり自分は絶望知らずな気がしてくる。

失望なら数知れずしてきたけれど、こと絶望となると経験がないのじゃないか。

そもそもそれが絶たれたことによって、生きる気力を奪われるほどの希望を僕は持っていない。

生きるコンセプトが、「死ぬまで生きる」というものだから、命一個あれば、他は特に望まない。と言いつつ、不味いものよりは美味しいものを食べたかったり、お金も無いよりはあった方がいいと思うし、って、これは欲で、望みじゃないのかな、どうなんだろう。日本語って難しいね。というより、人間の心、思考は難しい。

明日も仕事。行きたくないけど、行く。短期的な欲望としては、休みたいけど、中長期的に見れば、行かないとしんどいことめんどいことになるから、明後日以降の自分を生かすために明日の自分を仕事に行かせる。そのために今日の自分を早めに寝かせる。

友だちがラインで送ってくれた名言には、今を生きることの重要性が説かれていた。素直にいい言葉だと思ったし、自分もそういったことを屡々考えていて、共感もした。が、それが実行できない自分に失望。絶望じゃないよ。失望。

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「走れ絶望に追いつかれない速さで」 2015年 日本 監督 中川龍太郎

親友の自殺。
その理由は分からない。

分からないことがつらい。
走る方向が間違っていたのか、絶望に追い詰められ走ろうにも先は崖。その崖から、彼は飛んでしまった。

友を失った。しかもそれは仲違いや環境の変化、心境の変化といったものではなく、存在そのものがこの世から喪われてしまった。一方的に関係を絶たれた。

親友に死なれた彼が、死んだ友の初恋の相手にその死を告げに行くという行動は、見る人によって意味を変える気がする。

また、観る時期によっても意味が変わりそう。

そんなことを。

不一。