なにものよ。
何となく流れがそうだから、何となくやってるけど、本当にこれなのかななんて感じで、ずっと生きている。他人のことはあーだこーだ思うところはあるのに、肝心の自分が一体何者なのか全然分からない。
何しにこの世に出てきたんだろう。良いもの食べていいとこ住んでいい服着ておよそこの世の快とされていることで、人生を埋め尽くせばそれで満足できるだろうか。どうも満足できる気がしない。
となりを見て、何か一つでも優るものがあれば、その優越感で生きていけるのだろうか。どうもこれも違う気がする。
仏道を学ぶというは自己を学ぶなり。とか以前に高名なお坊さんの本で読んだ気がする。Googleなんかで何でも調べられて、物事を知ることは随分容易くなったけれど、自分が分かるようになったかといえば、これが全然。
社会人としての立ち位置というか、社会性を帯びた群れで行動する生き物としての人間という見地からなら、自分は社会的にはこういう感じなんだななんて、ちょっとは分かるのだけど、知りたいのは無論そんなどうでも良いようなことではなくて、自分。
例えば、いま自分自分と周りに吹聴し見せているのは、あくまで皆が与えてくれた自分で、これが、会社を辞め、家族友人知り合いがひとり残らず自分から離れ、何も持たず、自分がどう説明しようもない一人になったとき、何が出来るか。それこそがその人なんじゃないか。なんてことを考えるとますます自分は何者でもなくて、周りに何者かであらせてもらっているのだな。と情けなくも有り難い答えに逢着する。
自分自分と風呂敷広げて威張ったところで、その存在は人に依存せざるを得ず、自分ひとりでは何一つ確立できぬ。
ならば、争いよりは融和。優劣よりは感謝。楽しくやるに如くはない。
己が何者か?なんてことの答えも人なしには見つけられない。人がいても見つからないけど。
人より優れることで、劣った人よりは生きている意味がある気になったりしているだけで、そんなことは根本的な意味の説明にはならないし、自分が例えば最下等に落ちれば、もう生きている意味はないかといえば、そうも言えず、優れることに生きる意味を見出す人には劣った人ほどたくさん必要で、もう何がなんだか人類。
で、結局のところお前何者よ?俺?俺なぁ、俺も一体何者よ?
「何者」 2016年 日本 監督 三浦大輔
社会に出る前の若人たちの浮遊した存在感、若さからくる万能感が破れ折られていく様、思い描いた未来がそう甘いものでもなかった現実、肥大化した自意識が現実のプレスを受け、等身大に近づいていく過程の煩悶。
こんなにすごいと思っていた自分を世の中に提出してみれば、凡庸極まりなく、誰しも通った道を自分も通っているだけのことだったと気づいたときの挫折感。
青臭い物語だけど、オッサンになってからじゃないと、面白く見れなかったかもしれない。
監督の名前がハマの番長みたいだけど、別人だろう。どうでもいいことだ。
自分が何者か?なんてこともね。
不一。