ひとり?ふたり?・・。

生きていることに悩まないのが健全なのか、生きていることに悩むことが本来なのか。

悩むというほどではないけれど、なぜ生きているんだろうな、なぜ生きていかなくちゃいけないんだろうな。なんてことは、昔からずっと折りあるごとに考えたりしていて、そんなことの答えはそのまま真理なのだろうから、僕のような凡下に分かるはずもなく、差し迫った問題でもないので、放置してまた愚にもつかぬ日常をダラダラ過ごしていると、腑抜けた頭に唐突に浮かぶ。俺何やってんだろ。何で生きてるんだろうな。嫌々仕事に赴き、グチグチ帰ってきて、グッタリとしている間に時間は過ぎて、就寝。起床また仕事。この繰り返しに何か意味はあるんだろうかな。思春期かwってツッコミの入りそうなそんなことを繰り言のように考える。しかし、そこに思春期ほどの懊悩苦悩はなく、煩悶もなければ、自棄に走ろうと思うこともない。ただ淡々と何してんだろうな。と思う。

それでも特に罰せられることも褒められることもなく、良いも悪いも分からないまま日々は過ぎていく。流されるとはこのことか。そしてそれを流すのは自分の時間。

自らに翻弄されるように生きていると、己の御し難さに愕然の思い。

誰や不惑の四十とか言うたの。惑いまくりやないか。それとも現時点のこの感じこそが自分の人生の指針というか、定まった思考回路ということか。死ぬまでこんな感じで行くってことか。全ての元凶は自分なのだから、他人を頼るわけにはいかない。

自縄自縛の縄を解くのは自分自身。

ってどうやって?両手後ろ手に縛られてんじゃん。

誰か。誰かいませんか。

イメージ 1


「ロブスター」    監督 ヨルゴス・ランティモス

誰かパートナーがいないと、街で暮らすことができず、パートナーのいない人は何やら期限付きでホテルみたいなところに入れられて、期限内に相手を見つけられないと、動物に変えられる。みたいなちょっと飲み込むのに時間ください設定。

でもこの感性先行の歪な世界観ちょっとワクワクする。どんな展開が待っているのか。

やはり最後も尋常なラストじゃなくて、好きじゃないけど、記憶に残る作品だった。

生きることって、バトンをつなぐこと?それともゴールすること?

不一。