あいつさえいなければ。というのは安易。

最大多数の最大幸福。

ようさんの人が幸せになるんやったら、ちょっとくらいの人が犠牲になるのはしゃーない。という考え方だけど、これは何とも難しい。言ってることは分かるけど、実現は難しい。幸福というものの価値観は人それぞれで、それぞれの人が最大多数の最大幸福に理解を示したとしても、幸福の形はそれぞれで、僕はそうは思わない、私はこう思う、なんてことを言いだしたら、収拾がつかない。

一人を除けば多数が助かる。腐ったミカンは取り除け。と、理屈では簡単に思えるが、実際そう簡単にはいかない。

三十八度線から北のカリアゲミサイルマンが、何がしたいのかわからんが、矢鱈にミサイルをあちこちに発射している。今日も速報でかの国から発射されたミサイルが北海道を通って太平洋に着水したとか。
カリアゲミサイルマンを取り除けば、かなりの人間に平安が訪れるんじゃないか。と思うけど、カリアゲミサイルマンもまた親から移譲された権力に責任を感じて、彼なりの最大多数の最大幸福を実現せんと頑張っているのかもしれない。

煙たいのはこちらの都合で、カリミサからすれば、こちらの方が煙たいのだろう。

平行線だ。

現世に地獄は簡単に作れるのに、天国は作れないんだな。

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「教授のおかしな妄想殺人」  2015年 アメリカ 監督 ウディ・アレン

人生に虚無を感じ、モノクロの時間を生きていた哲学教授が、飲食店で後ろのボックス席に座る人たちの会話の中で、許すまじき悪徳判事の話を聞き、そいつを亡き者にすればどれだけの人が助かるだろう。よし、やったるで・・と殺人の計画を立てる。

すると俄かに活力が漲り、人生が色づき出す。食欲は増すわ、睡眠はばっちり取れるわ、インポ治るわの無双モード。

生きがいって大事なんだな。

何のために生きているのか、なんて悩みは、何かのために生きたいからこその悩みで、それ自体が生きがいと言えなくもない。

教授が感じていた虚無は、生きがいを内包した虚無で、芯に生に対する渇望がある。

ある。ということは虚無ではない。本物の虚無は意識することもかなわないものなのだろうと思う。

不一。