わからんねぇ。
そもそも信じる信じないということを言うということは、どちらの立場に立つとしても、いくらかの疑いと、いくらかの根拠が混在しているもので、絶対ということはないんじゃないかと思う。
生きていくのに必要な空気があることを疑う人はいないだろうし、燃えている火を見て、これは果たして火だろうか?などという人もいない。
しかし、私はあの人を100%信じています。なんて言うとき、いちいち宣言している時点で、幾ばくかの疑いを持っていると思う。或いは騙されてもしょうがないという諦観、果てはこんなに思っているというあざといアピール。
本当に100%信じているなら、信じているという言葉は要らない。
考える必要もない。息を吸えば呼吸が出来るように、足を踏み出せば受け止める大地があるように、そんなことをいちいち考えて動かないように、信じているなどという大仰な表現は出てこないはずのものをこそ人間は芯から信じているのだと思う。
なので、信じているという言葉の持つ意味は、支持している。程度のことで、芯からの心ではないのじゃないか。
だから僕は他人にあなたを信じているなどという、脅迫めいたことは言わない。
言わないことこそ信頼だ。
けどそう思っていることを、言葉にしないと、他人にはこちらの信頼は伝わらない。
言葉にすることで、これらは陳腐なものに感じられ、己の思考に自信が無くなる。
己を信じられぬ者に他人が信じられようか。
結局この世は不信に満ちている。信じている。それは「信じたい。」という願望の言葉なのかも。
何が本当で、何が嘘か。そんなことはどっちでもいい。信じたい。
そんな心をこれまでたくさん見てきた気がする。
「FAKE」 2016年 日本 監督 森達也
フェイクというタイトルに相応しく、どこからどこまでが本当で、何が嘘なのか分からなくなる内容。
彼の奥さんは、彼を信じていると言うけど、どこか根拠が希薄で、強くは言えないところを感じる。そこを長年一緒に過ごしてきた彼への愛情や自分の信念で埋め合わせようとしている意思を感じる。
一方ゴーチは、何だかつかみどころのないことをグダグダ言い募るばかりで、行動が伴わない。身の潔白を証しようという努力も他力本願で、根っからのゴースト頼り体質か、ほじくり返されると、新たな嘘が発覚することでも恐れているのか、何せ軸が定まらない。
どっちなんだよ。結局どっちなんだよ。
2割信じて、8割疑っている。
ドキュメンタリーなのだけど、未解決のまま少しの示唆を残して、唐突に終わるミステリーを観た気分。
モヤモヤする。作品としてダメという意味ではなく、作品の投げかける上質な問いに対して、僕のダメな頭がモヤモヤする。
不一。