持て余すよね。

あれほど多忙を嘆き、自分に時間さえあればと事あるごとにぼやいていた親父が、定年を迎え、いよいよ待望の暇を手に入れたはずなのに、日がな一日為すすべもなくぼんやりと日々を過ごしている姿を見て、どこまでも人生とは思い通りにならぬものだとの観を強める。
 
若い時はその力を労働力に替え、それを売り、やりたいことがあっても労働に差し障りのない程度にしておかないと生活が成り立たない。
 
ようやく人心地ついたと思っていたら、子どもにお金がかかる時期に差し掛かり、上がった給料分、出費も膨らむ。
 
子どもが自立し、よしやっと自分に金も時間も使える。となった頃には、長年の酷使、加齢などにより、身体が動かなくなっている。
 
皮肉なものだ。何かがあれば何かが欠ける。でもその全てを欲するのが人の性で、いつまでも人はきっと人生に満足はできない。
 
何一つ欠けることなく人生に満足していると、ボーダーラインで言えば合格ギリギリとかではなく、全開で100点満点人生に満足しているなどという人は、いないのじゃないか。
 
僕は今の人生に、満足しているが、それとて諦め混じりの湿度高めの陰湿な満足で、それは成分で言えば諦めが大きく立ち優った、見る人が見れば完全に不満足な満足だ。これは満足ではないのかもしれない。うん、多分違うんだろう。けど、こうなのだから、この考えも含めて、満足するより他はないのだ。納得と言った方がニュアンスは近いだろうか。
 
親父を見ていても、どこか諦め混じりに日々を過ごしているように見える。社会人として立派にやりきったはずなのに、言葉の裏、日々の行動に何かしら後悔の影が見て取れる。
 
何かしたいが、もうその体力も能力も、イメージに適った行動もできない。
 
何もできることがない。
 
生を持て余す。生きているのに、そのことに自分で意味を与えられない。持て余した生は、そのまま家族などにものしかかる。それが家族のためと生きてきた彼には苦痛で、さらに生を持て余す。
 
いつ死んでもいい。
 
半ば本気なのだろう。時折漏らす虚ろな言葉が、耳朶にまとわりついて離れない。
 
人生は残酷だな。
 
長生きしてくれと願うのが当たり前なのだろうけど、彼は長生きに耐えられるだろうか。持て余した生とどうやって付き合っていくのだろう。
 
いい背中を見せて欲しい。それが僕の希望になる。
 
未来があるのは、何もそこらのクソガキだけじゃないのだ。生きている限り、誰にだって未来はある。ただ希望に満ちて聞こえるか、残酷に響くか。言葉が形を変えるだけのことだ。
 
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「お父さんと伊藤さん」 2016年 日本 監督 タナダユキ
 
二十も年の離れた男と同棲する娘の元に、長男の家に住めなくなった父親が転がり込む。二人ともアルバイトで定職に就いていない彼らの借りている部屋は広くはない。
 
想像するだに大変なシュチュエーション。
 
年を取ると、やはりどうしたって邪魔者扱いを受ける。ましてやそれが自分で何も出来ぬオヤジなんかだったりしたら顕著。
 
この作品のお父さんは、自分で自分をどうにかできる貯蓄や思考、健康を持ち合わせていたからいいものの、そうじゃない年寄りもたくさんいる事を思えば、たくさんの持て余した生がこの国には溢れている。それを受ける容れ物は圧倒的に不足していて、皆それぞれ自分のことでいっぱいいっぱいであるのに、そこに親とは言え持て余した生を容れる余裕はなかったりする。
 
自分のことくらいは、自分で処せる人間でありたい。
 
と思うけど、そんなもん誰でもそう思うわい。誰が好き好んで他人の世話になんぞなりたいと思うんだよ。そこも思い通りにならないのが人生なんだろう。とも思ったり。
 
不一。